OUR COFFEE

インドネシアとの運命的な出会い

インドネシアという国は、私にとって単なる駐在先ではありませんでした。

もう30年近く前になる20代後半から30代前半までの6年半、私はその地に身を置き、仕事を超えた深い繋がりを築きました。人々の温かさ、豊かな文化、そして壮大な自然に心を奪われ、やがてインドネシアは“第二の故郷”と呼べる存在になりました。

そんな私の人生に、新たな道を示してくれたのが、駐在時代の元同僚であり、25年来の友人であるインドネシア人、Lisbon Barinbing氏でした。

一杯のコーヒーが運命を変えました

2017年、私はジャカルタでLisbon氏と再会しました。彼は長年勤めた会社を辞め、コーヒービジネスを始めていました。その理由を聞いたとき、彼の強い使命感に胸を打たれました。

彼の故郷である北スマトラ・トバ湖近隣では、高品質なコーヒー豆が生産されています。しかし、大手企業や中華系バイヤーが安価で買い占め、現地農家は搾取されていました。この状況に耐えられず、彼は脱サラを決意。農家を指導・支援するNPOに所属し、直接農家と信頼関係を築き、適正な価格で取引を始めたのです。

そして、私は彼が勧めるコーヒーを口にしました。その瞬間、衝撃が走りました。

クリアな口当たりと後味、バランスの取れたコクと酸味。私は元来、胃腸が弱く、ブラックコーヒーを避けていました。しかし、その時ばかりはブラックで最後まで飲み干し、さらにおかわりまで求めました。そんな経験は生まれて初めてでした。

「この豆を日本に紹介したい」

私のこの提案に、Lisbon氏は大いに賛同し、新たな挑戦が始まりました。

幾多の困難、そして転機

しかし、計画は順調には進みませんでした。

ちょうどその頃、インドネシア国内でスペシャルティコーヒーがブームとなり、現地需要が急増。私自身も別事業の立ち上げで多忙を極め、計画は一時中断。そして世界はコロナ禍に突入し、私たちの動きは完全に止まりました。

そんな中、2021年に転機が訪れました。

日本スペシャルティコーヒー協会が主催する展示会「SCAJ2021」に、インドネシア政府がブースを出展し、各産地からスペシャルティコーヒーを選抜して展示することになったのです。

私はこの機会を逃すまいとLisbon氏に応募を促し、彼のコーヒーは見事、北スマトラ代表として選ばれたのです。

コロナ禍のため彼自身は来日できませんでしたが、私が東京ビッグサイトで代理として接客営業を担当しました。その場で多くの来場者が口にしたのが、

「インドネシアの豆は好きだが、大手商社経由が多く農家の顔が見えず残念」

「大手商社の豆は新旧混ぜたものが多いとも聞き信頼できない」

 「品質にこだわりを持つ小規模農家と直接取り引きしている一次商社から仕入れたい」

「直接仕入れに現地に出向いたことがあったが、現地の流通は複雑で元請けに辿り着けないほか、ブローカーが多く価格や品質、決済も信頼できない」

といった声でした。

このニーズに確信を得た私は、Lisbon氏との信頼関係と彼の産地人脈が、この問題を解決できると確信しました。さらに、その展示会でインドネシア中央銀行や商務省の担当者とも繋がり、さらなる産地へのアクセスも得ることができたのです。

「恩返しをしたい」

この時、私の心の奥底に眠っていた思いが呼び覚まされました。

「仕事観と人生観を変え、豊かな人生に導いてくれたインドネシアへ、いつか必ず恩返しをしたい」

そして2023年8月、私はLisbon氏と共に、初めて北スマトラ・Lintong地区を訪れました。

農家を巡り、育苗から精製、品質管理までの現場作業を目の当たりにし、想像を遥かに超える手間と努力に衝撃を受けました。その一つ一つに込められた情熱に触れたとき、「この豆を日本のコーヒー愛好家に届けることで、彼らの生活向上と次世代への継承に貢献したい」という思いが、確信へと変わりました。

2024年8月には、インドネシア商務省の紹介で、バリ・キンタマーニ、東ジャワ・ボンドウォソの農家を訪問し、同じく彼らの思いを学びました。そして同年、ついに正式に買い付けを行うことができたのです。

しかし、どの産地も日本への輸出は初めてでした。

輸出ルート、手続き、コスト計算・・・すべてが手探りの中、一つ一つ課題をクリアしながら、独自のダイレクトトレードルートを構築していきました。

そして2024年12月、ようやく3つの産地、5種類のスペシャルティコーヒー生豆が、神戸港に初上陸したのです。

これは単なるコーヒーではありません。

ここには、彼らの誇りと人生が詰まっています。

そして、私の第二の故郷への恩返しの第一歩が、今ここに刻まれました。